2005年 03月 17日
生きることとその終焉。
風前の灯
忘れもしない2月10日の木曜日、作業の帰り、隣の製造室のWさんに運転していただくことになって、車に乗っていました。 Wさんが前日に、川原のそばにいる猫の写真をアップしていたので、お姉様とそのお話をしていました。 「あの猫かわいいよね。」とお姉様。 「あ、猫!!」 とWさん。 え?と思って、目の前を見ると、何と道路で猫が引かれてしまっているところに遭遇したのでした。 猫はまだ生きていて、もがき苦しんでいます。 何とかしなきゃ、とみんなで言っている矢先、大きなトラックが通って、猫は動かなくなってしまったのでした。 急いでWさんが車からおりて、わたしがkimiyoちゃんに服を贈るために積んでいた卵箱に入れて持って来ました。 よく見ると、首輪がついていて、飼い猫のようです。 最初、飼い主がいるなら渡した方が良いかという話も出ていたのですが、放置するわけにもいかないし、首輪もわりと劣化していて飼い猫ではないかもしれないし、 工場に連れて帰ることにしました。 Wさんが、「はい。」と言って、わたしに渡して来て、置く場所も無かったので、工場につくまで箱ごとひざの上に乗せていました。 さっきまで生きていた、まだ温かい猫の体温が、わたしの膝を通じて伝わってきます。 「大丈夫だよ。」心でそう語りかけながら、チベットで唱えられている観音菩薩のマントラを唱えてみました。 わたしがまだ小学校の頃、お出かけをした帰り道に、猫がずっとついてきて、飼うことにしたら、病気を抱えていたみたいで、数日で死んでしまったことがあったのですが、 その時は49日間の間、綺麗な音楽を聞かせてあげました。 最初の日か2日目に、猫の幽体が抜けていくところを見て、49日目に土に還しに行った時には、その作業をしている間だけ、凄く穏やかで、優しい霧雨が降ったのでした。 まるで、「ありがとう。」といわれているかのように。 それを思い出して、今回も、同じように右側をしたにして箱に入れて、音楽を聴かせてあげることにしました。 まだ49日は経っていないけれど、安らかな世界に猫さんが行けたらいいなと祈っています。 今回の出来事で、本当に、この地球に生まれた生きものはすべて、いつかはどんな形かわからないけれど、死を迎えるのだな、という事実を、再認識しました。 仲の良いお友達も、大切な人々も、そして、自分でさえも、いつかはこの身体からいなくなる時が来るのですね。 お釈迦様は、死者、病人、老人を、三つの御使いであるとおっしゃっているそうですが、 この変わることのない事実を、忘れかけているけれど、すぐ隣り合わせにあることを教えてくれるという意味では、本当に御使いなのだとわたしも思いました。 以前、NHKでチベット死者の書が放送されましたが、チベットの人々は、死というものをまったく恐れていなくて、逆に、今生きている間にした善と徳の行いが現れ、もっと高い世界に行くチャンスなのだと捉えているのだそうです。 それはチベットの方々が、日々良い行いや言葉、心の働きをしているから、死を怖いものとしてではなく、チャンスだと捉えることができるのでしょうね。 中でもラマによっては、数日前から察知して、山に篭り、虹の身体を得て神秘的にこの世を去る方もいるのだそうです。後でそのラマについていたお弟子さんがラマのところに行くと、爪と衣服だけが残されていたりとか。 そのような現象からも、チベットの方々は、死について、何も特別なことではなく、誰にでも訪れることとして、ありのままにとらえられるのかもしれません。 わたしも、いつ、その瞬間が訪れたとしても、この生が意味のあるものだったと思えるように、有意義な生き方を、できるだけたくさんの人を利して生きていきたいです。
by ami-cosmo
| 2005-03-17 19:35
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