2007年 04月 01日
奇跡お久しぶりです* いよいよ東京は桜が満開ですね。 実は先月、3月の1日に、 母を大学病院の検査に連れて行ったところ、 くもまっか出血だったことがわかり、 急遽、検査、手術となり、 ほとんどを救急救命センター(ICU)で過ごし、 入院していました。 2月24日の土曜日あたりから、 激しい頭痛をうったえてはいたものの、 それがくもまっか出血によるものだということは、 透析の病院の医師・看護師を含めて、 その日まで誰も気づきませんでした。 CTによれば、3月1日の時点で、 破裂してから6日くらいは経っているとのことで、 その破裂した頭の動脈瘤(血管にできるこぶ)が、 かさぶただけで止まっていたのだそうです。 くもまっか出血は、最初の破裂でほとんどの人が、 心停止、意識障害、半身不随などになるそうで、 再破裂するごとに、生存率が低くなるのだそうです。 手術は3月2日に行われ、 奇跡的にも無事成功しました。 手術前に、先生から、家族控え室でお話があり、 手術に伴う、いくつものリスクの説明がありました。 その中には、場合によっては術中死も考えられるとの お話もあり、先生の書いてくださった説明にも、 命がけの手術、と記されていて、 その周りを赤いペンで囲ってありました。 手術の所要時間は、6時間~8時間。 母は、腎臓が悪く、人工透析をすでに22年間している身。 透析患者さんは、10年持てばいい方といわれていて、 その倍生きているわけです。 更にそこに手術の負荷がかかったら。。。 考えただけで息をのむ思いでした。 脳の手術なので、麻酔は全身麻酔。 透析患者さんは、尿も出ないので、 麻酔から覚めない可能性もあるというお話も。 母は過去、わたしを産むときも全身麻酔をしていて、 その時臨死体験をして、何とか帰ってきた人なのです。 事の成り行きを頭の中で処理する暇もないまま、 先生の話を聞き、家族への連絡、送迎依頼など わりと冷静に過ごしていましたが、 身体がついていかないのか、 未だかつて無いような感覚になりました。 心臓と、肛門と、指先が、 ひとつながりに繋がったような、何とも言えない感覚。 そして、歯が浮いたような状態。 極度の緊張状態というのでしょうか。 生まれて初めてなりました。 それでも、我が家の家族はみんな明るい人たちなので、 手術中、畳の部屋に通されてからも、 祖母、叔父、わたしは談笑しながら過ごしていました。 そんな中、やっぱり落ち着かないので、 ヨガの呼吸法をしてみました。 その時、目を瞑ると、脳の血管が見えるんですね。 とても綺麗に見えました。 あ、これならきっと、破裂して、手術ができなくなる、 ということも、起きていない、きっと成功する。 そう思いました。 ずっと歯が浮いたような状態が続いていましたが、 心優しい親友がかけつけてくれて、 少し一緒に話しをしてもらったことで、 心の緊張がとれ、本当に救われた気持ちでした。 手術の始まる前に、先達やお友達、知り合い、 みんなに連絡をして、一緒に祈って頂きました。 そのみんなの祈りによって、母は再び命を得ました。 手術後、ICUに入ってから3日くらい経って、 食事をとれるようになったとき、 ずっと黙っていた母が、 簡単な意思表示だけではない話しをしてくれました。 それは、手術中の夢の話しで、 「光の生命体が出てこられて、 わたしの足も、わたしの身体も、全部あげるから、 しっかり生きなさい。って、いわれて、何度も何度も身体をもらったの。」 とのことでした。 わたしは初めてICUという場所を知りました。 24時間体制で、医師・看護婦さんが滞在し、 常に患者さんの様子をチェックし続けている、 広い宇宙船のような場所でした。 その中には、たくさんのチューブや線や機械が繋がっている方、また、小さな赤ちゃんもいました。 そこでは、夜は大きな机を囲んで全員でミーティングを行い、綿密な打ち合わせが行われていました。 看護婦さんも先生も、みんな全力で動いていらっしゃる気迫が伝わってきて、どんなに大変でも、心からの優しさで接していらっしゃるのが伝わってきました。 今回初めて救命センターを行き来したことで、 こういう世界があるんだな、と、非常に感銘を受けました。 先生も、6時間~8時間も顕微鏡で集中して手術して、 その後家族に説明、午前からは出張、と いつ休まれているのだろう、と思うようなスケジュールで過ごされていました。 母は看護婦さんが来てくださる度に、 綺麗ですね、本当に素晴らしいですね。 とずっと言っていたのですが、 その場に集う看護婦さんは、 未だかつてないくらい、本当にすべての人が美しかったです。 ICUをあまりにも母が気に入っていたので、 なぜだろうと思っていたら、 どうやらまわりでお世話してくださっている方々のことを、 聖者だと思っていたようでした。 彼女にとっては、聖者に身体をふいて頂き、 水を飲ませて頂き、またお世話をして頂いているという 感覚だったようでした。 手術中も先生にお願いして、綺麗な音楽を流させて頂くことができたので、ICUでもかけてあげることにしました。 ICUは、面会の制限がなく、 家族同伴であれば、誰でも面会が可能なのですが、 先達の方、お友達、病院の看護婦さん、たくさんの方々が 来てくださいました。 2日の手術がおわり、9日の誕生日を、 母はICUで迎えたわけですが、 全日に透析の病院の看護婦さんが買ってきてくださった ケーキをしっかり食べて、 当日も、わたしの買ったケーキを食べ、 更にとても仲良しなお友達にも来て頂いて、 起きて一緒に工作までするほどでした。 最初は一点を見つめたり、口をぽかんと開けたりしていたものの、数日でぺらぺらしゃべることができるようになり、 14日間後くらいに、普通病棟に移ることができました。 普通病棟に移ってからは、脳外科という環境上、 どうしても、おーーーーいというおじいさんの叫び声とか、 泣いている女性の声とか、そういったものが聞こえる場所なので、最初非常にこわがっていました。 手術が終わったばかりで、夢と現実が繋がっているので、 聴いた声や音が、即夢に現れてきてしまうというのです。 今までそんなことを言ったことはなかったのに、 とにかく毎日誰かに来て欲しいとのことで、 わたしや他の家族やお友達が、 できるだけ通うようにしました。 まわりの叫び声に対する嫌悪や恐怖がピークに達した時、 あまりにも苦しそうだったので、 そこで嫌悪したり、恐怖したりするのではなく、 その叫んでいる人、泣いている人の苦しみを思い、 本当に可愛そうだ、と、思ってあげることができたら、 慈悲の気持ちがわいて、 恐怖もなくなると思うというお話をしました。 それが伝わったのか、涙を流して、 わたしには今までまったくない心の働きだった。 嫌悪や恐怖ではなく、慈悲が培えるように、頑張る。 と言い出しました。 夢と現実が繋がったような感覚と、 曜日の感覚がつかめないこと、 誰が来たのか、どんなことをしたのかが、 覚えていられないということに、だんだん気づき初めて、 その時も苦しんでいました。 とりあえず、来てくれた人に名前を書いてもらうことで、 事実確認ができると思い、お見舞いの名簿を作りました。 そして、ノートに日記を書いたらいいよ、と促したところ、 毎食後の薬の袋を貼ることで、 曜日などを確認するようになりました。 言語療法のリハビリも始まり、廊下も歩けるようになり、 たくさんの人に来て頂くことで、だんだんと元気になって、 入院する前よりも元気なのではないかと思うほど、 みるみる回復していきました。 そして、3月31日に、退院。 満開の桜に囲まれながら、1ヶ月お世話になった病院の方々に感謝の言葉を伝え、家族や恩人に囲まれながら、 無事退院することができました。 数々のあり得ないようなリスクの超越、 本人の体力だけでは絶対に乗り越えられなかった壁、 縁ある存在による、ありったけの祈りによる加護。 この一ヶ月間で、わたしはずっと、 物語のような、夢のような、奇跡を見ました。 ご加護くださった神々、 どんなに大変でも、嫌な顔一つせず、 明るく振る舞い病院に通ってくれた家族、 自分の身を犠牲にしてまで、病院にかけつけてくれた親友、 検査の日、送迎してくださり、ずっと病院にいてくださり、 更に家族の送迎を深夜に至るまでしてくださった恩人、 忙しい中来てくださった聖者の方々、 祈ってくださった遠くの聖者の方々、 そして、お友達の皆さん。 本当に、本当にありがとうございます。 今回、母がひとりではなかったことを知りました。 そしてわたしがひとりではなかったことを知りました。 わたしたちは、たくさんの存在によって、 支えられて生きています。 この感謝の気持ちを、一生涯忘れず、 これからの奇跡を、見続けていきたいなと思います。
by ami-cosmo
| 2007-04-01 18:18
| 感謝。
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