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カテゴリ:トランスパーソナル心理学( 5 )

楽しさについて


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天性の音楽家の日記から転載

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「楽しい仕事」という言葉について考えた時、では果たして「楽しい」とはどういう状態か、という問いが生まれた。

いくつかのことを思い出した。

至福とは我がない状態であるという言葉である。「我」という自覚の中には幸せはない、と。誤解を招きやすい言葉ではあるが、これは解釈が正しければ的を得ていると考えている。「我が」という自覚は苦の要素を増加させる。

もう一つはコリン・ウィルソンの『右脳の冒険』のことである。何かに集中すること。リラックスしながら集中することによって自覚的に至福状態を引き起こすことが出来る。彼はマズローの心理学から説き起こしてこのように主張していたと思う。

外部の対象に集中し切っている状態に「我」の自覚はないから、2つは同じことを言っている。確かに本当に集中した状態を後から振り返ったとき「楽しかった」と表現する。私の体験から言えば、これは正しい。

ウィルソンは「集中の対象は何でもよい」といっていたと思う。が、これは本当だろうか。楽しいという表現を「仕事」と結びつけた時、これは必ずしも本当ではない。

今のところ、思索はここまでに止める。
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by ami-cosmo | 2006-03-02 23:28 | トランスパーソナル心理学

All for one. one for All.


一人が、みんなの為に、みんなが一人の為に。

今日、悩みながら頑張っている、永遠のお友達が、「わたし、この言葉が好きなの。」と教えてくれました。

そんなことを思わせるお話を、割れない太極拳士の記事より転載します。

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それにしても最近の世の中の乱れようはどうだろうか?
なんと言うか・・・痛ましい、異常な犯罪が増え続けている気がするのだよね。

いや、実際に増えているのだろうけど。

何がそうさせているのか。

原因は色々だろうけど、事件を起こしているのが人間である限り、心が原因であるのは間違いないわけで。

その心に、いつ、何が、どのように、どうして、起きたのかが問題。

平原綾香さん(紅白出場決定おめでとう~♪)が歌ってらっしゃるように、人と人の心は、ふっかーいふっかーい、そりゃあ深いところではつながっていると思うわけで。

そう。

みんなの心に何かが起きているんだと思う。

ハインリッヒの法則。

別名 1対29対300の法則。

アメリカの技師・ハインリッヒ氏が発表した労働災害の発生確率分析。「1件の重大災害の裏には、29件の軽度の災害があり、ケガ人は出なかったが、ヒヤッとする300件の体験がある」というのである。


一つの惨事の裏側には、29の惨事に至る一歩手前の事件があり、300の人が、同じ問題を多かれ少なかれ心に抱えていることになる。

たとえばあなたが今、カップラーメンをこぼしてぶちまけちゃったとしたら、同時に29人の人が、あわや手がすべり、カップラーメンをぶちまける一歩手前であり、同じ時に300人の人が何かの拍子にカップラーメンをこぼしそうになり「うわっ」とか言っているわけだ。


同じく、あなたがスーパーのレジで会計をしようとしたら財布を忘れたのに気が付いててんやわんやなその時、29人の人がレジに行く前に財布を忘れたことに気がついて商品を棚に戻しているところであり、300人の人が「あ、財布忘れた」と言いながら家に戻っているところなのである。



・・・・・ごめん、例えが悪すぎた・・・・・(--;)。





そうじゃないんだよ。
事態はもっと深刻だと思うんだよね。


ニートと呼ばれる、働きも、就学もアルバイトもしない者達。
引きこもり。
ストーカー。
DV、幼児虐待。
異常な性嗜好。


その挙句の悲惨な事件。

1対29対300の法則は確かにあると思う。

全体的に、何かがみんなの心に澱んできているんじゃないかって。





インターネットで、ちょっと裏道というか、アンダーグラウンドの世界に入ってみると、さしたる手間も要らず、その片鱗を見ることが出来る。

異常な書き込み。
執拗な荒らし。
尋常でない異様な・・・・・・。


そう。
インターネットというのは異常な世界への窓でもあるのだ。
異様な情報が、異様な量で、異様な世界の中で飛び交う。


それが、今まで独自の世界だけで起きていたものが、最早誰にでも手の届くところにある。
つながっている人の心は、みんなみんな徐々に狂っていく。

まるで都市伝説みたいな・・・・・。



まあ、もちろんこんなことは、人と人の心がつながっているという仮定のもとで言っているわけだけど。
でもさ、なーんか変な世の中になってきたよね。
ホント。

「インターネットによって、有史以来かつてない膨大な情報が飛び交う今、人の心に何かが起きるのは必定」、なーんて、秘密の河馬さんが言っていたよな。

なんて悲惨な事件の多い、人の世であることか。



・・・・・やなことは、やだなぁ。



Jupiter   平原綾香

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながってる
果てしない時を 越えて 輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙(そら)の御胸(みむね)に抱かれて

私のこの両手で 何ができるの?
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じて あげられないこと

愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂(しじま)に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに

今は自分を 抱きしめて
命のぬくもり 感じて

私たちは誰も ひとりじゃない
ありのままでずっと 愛されてる
望むように生きて 輝く未来を
いつまでも歌うわ あなたのために


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わたし、実は平原さんが歌われているお姿を、拝見したことがあります。
去年の早稲田祭の最後のパレードの時、通りかかった早稲田駅周辺の喫茶店のような所で、歌っていらっしゃいました。人がたくさん集まってはいたけれど、当時わたしは彼女を存じていなかったので、近くにいって聴いたりはしなかったのでした。
後から知って、とても貴重な場所に通りすがったのだとわかりました。
意識の拡大するような、稀に見るとっても良い曲ですよね。
織りの子は一時期、耳が痛くなるくらい大音量で毎日聞き続けていると言っていました。
その時も織りの子と、みんながトランスパーソナル的発想を持てたら本当に良いね、と話していました。
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by ami-cosmo | 2004-11-25 19:28 | トランスパーソナル心理学

外側の自分と内側の自分。

Insightful

自分を認める価値基準を、外側に持っているような人格を採用した人間は、自尊心を回復させるために他者を否定し、相対的に自分を満たそうとする。しかし、本質的に彼らは自分を認めるためにそれをしているので、いくら否定しても自分は満たされない。ただ、葛藤から一次的に逃れる手段を得ているにすぎない。

わたしたちは、絶えず何かとの比較によって、価値を見出そうとしますね。
でも、それは相対的なものだから、当然安定はしません。

もしも、わたしたちの否定している対象や、比べている対象が、外側にいる“自分そのもの”だと気づいた時、多くの人が今抱えている悩みから解放されるはずです。

あの人はこうだから悪い、あの人はできない、と他者を否定すると、その時点で未来における自分の可能性まで否定し、見失うことになるんですね。

例えばテストで赤点をとっている人がいる。そこで、あの人たちはだめだから、という認識を持ったとしますね。
そうすると、今度、自分が何らかの条件によって同じシチュエーションになった時、赤点を取る人=だめな人。という公式がなりたっているがために、『自分はだめなんだ。』と思うことになります。

もしもこの時、『あの人たちは赤点をとっている。でもきっと、もっと学習と努力を重ねることで、必ずや変化できるだろう。』 と考えることができるなら、自らが同じシチュエーションを迎えたとしても、『わたしは赤点をとってしまった。でも、もっと学習と努力を重ねることで、必ずや変化できる。』と考えることができます。
つまりここで屈辱が生起する、ということは、自らが他に対して屈辱を与えているから、ということに他ならないのでしょう。

だから目の前にいる人、まわりにいる対象は、未来の自分であり、過去の自分の投影であり、そして、体は違うかもしれないけれど、まさに今ここに存在している自分、その外側の自分、ということになるのではないでしょうか。

他者の失敗に関して、敏感に反応し、他者の欠点に敏感な人は、自らの失敗をせめ、欠点をマイナスに捉えます。
他の誰も否定していないけれど、それは、過去において、外側のわたし、を見た内側のわたし、が、対象に対する否定を積み重ねたことによって生じる現象なのだと思います。

ユートピアの原理は、まず他者を認めることによって生み出されてくるような気がします。
今、他者を否定し、未来における自らの苦しみの原因を作っている多くの人が、早く内側の自分と外側の自分に気づいて、その統合を図れることを、心からお祈りします。
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by ami-cosmo | 2004-10-23 03:40 | トランスパーソナル心理学

幸せのパラドックス。



最近、心の微細さ描く人とのお話で、幸せのパラドックスについてのお話が出たので、
昨日見つけたトランスパーソナル心理学のメールマガジンの抜粋を転載します。

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 『トランスパーソナル心理学入門』(上)

    諸富 祥彦 著  講談社現代新書

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トランスパーソナル心理学は、「心理学第四の潮流」と呼ばれる最も新しい心理学です。


心と体のみならず、魂やスピリット(精神)の次元まで含んだ
、真の意
味での全人間存在を扱う初めての心理学です。


「ほんとうの自分とは?」

「ほんとうの生き方とは?」


人生の永遠の課題に、一つの道しるべを与えてくれるのです。



■ すべて意味がある


この人生のすべての出来事には意味がある。

たとえそれが、不治の病、人間関係の問題などの否定的な出来事であっても。

単なる偶然としか思えない出来事であっても、そこには意味があり、私たちに何か大切なことを教えてくれるのです。


自分への執着を捨て、自分の幸福について思い煩うのをやめる。

そして、「この人生で自分が果たすよう呼びかけられている何か」にただひたすら取り組んでいく。

そうすれば、「なすべき時に、なすべき所で、なすべきことを
している」という「生きる意味の感覚」が満ち溢れてくるはずです。

その結果、真の幸福、真の自己実現も自ずと手に入ることになるのです。

人生には、こんな幸福のパラドックスが存在するのだと、トランスパーソナル心理学では言うのです。



■ 自力+他力の心理学


これまでの心理学は、「自己決断」「自己実現」といった価値を重んじる心理学でした。

それはいわば「自力の心理学」でした。

一方、トランスパーソナル心理学には、「自分を超えた向こう」からやってくる何らかの力、何らかの声を招き入れ、大切にしていくことから「他力の心理学」という面があります。


従来の心理学を含んで超えるという意味で、

トランスパーソナル心理学=「自力+他力の心理学」

と言っていいかもしれません。



■ 自分へのこだわりを捨てる


個を超えたつながり。

それは、みずからの心や魂とのつながり。

思想信条の違いや性差・人種の違いなどを超えた人と人のつな
がり。

過去の世代や将来の世代とのつながり。

あらゆる生きとし生けるものとのつながり。

この母なる大地と大自然、地球生命圏とのつながり。

そして私たちをその一部として含むこの宇宙そのものとのつながり……。


トランスパーソナル心理学では、「自分へのこだわり」を捨て
て、こうした「個を超えたつながり」を生きよ、と説くのです。



■ 個を超えたつながり


現代人が抱える心の傷や魂の渇き、寂しさや虚しさなどの多く
はどこからくるのでしょうか。

それは「つながり」を見失い、個人が「バラバラ」になってし
まったことから生まれてくるのです。


現代人の歪んだ生き方を根本から変革することは、この「個を超えたつながり」の回復によってしか成し遂げられえない、とトランスパーソナル心理学では考えます。


「個を超えたつながり」を回復しなければ、本物の癒しは起こりえないというわけです。


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幸せや、ものの価値観は、すごく小さい頃から一般論としてあって、そうでなければいけない、という考え方が教え込まれている気がします。
でも、何となく多数派に流されて生きてしまうのは、とても危険で、それはいじめなどの問題にもでて来るのではないかということを、中学校の社会のレポートで書いた記憶があります。

わたしたちは対象を求めて、外側に何かを求めて幸せを得ようとするけれど、それは岸にたどり着きたいのに竿で船を押してしまうようなもので、わたしたちの求めている対象との一体感からはどんどん遠のいてしまうのかもしれません。  おそらくそれが、現代に生きるほとんどの人の悩みの根本原因なのだけれど、そう思うことは難しいのかもしれないですね。

地球少女アルジュナの中で、

「君が僕をクリスと呼び、僕が君をシンディと呼ぶ時、二人の距離は遠く離れて行く。」

というような言葉を発している場面がありましたが、これも、シンディが求めているものと、シンディがしていることは、違っているんだよ、と教えるための言葉なのだと思いました。

もしも自分と対象に ”同じ” を見出して共有することが可能になったら、わたしたは決して一人じゃないと感じられるのかもしれない。

初めて会った人でも、例えば出身地が同じとか、お誕生日が近いとか、そういうことで共通点がわかると、人ってとっても親近感が沸いたりしますね。

以前、チベット死者の書とユング心理学の講座をなさっていたY先生は、
高校生の頃、屋上でふと、手すりに止まっているすずめを見ていて、
『このすずめも生きていて、自分も生きている。同じだな。』と思ったらしいんですね。
そして、呼吸をしていて、優しくされたら嬉しくて、と。
その同じ、をしていたら、すずめが自分なのか、自分がすずめなのかわからない認識まで生じてきたとのことでした。
また、大学生時代に、お友達と瞑想の真似事をしている時も、お友達が自分のようでもあり、自分がお友達のようでもある状態になったのだそうです。

その時から、電車に乗っている人も、まわりにいるすべての人が、自分と無関係ではない存在に思えるようになったとのことでした。

トランスパーソナル的発想を持つということは、そういうきっかけからも、生じてくる、
ある意味、身近で、本質的には自分自身とひとつで、わかりやすいことなのかな、という気もするのです。
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by ami-cosmo | 2004-10-21 08:09 | トランスパーソナル心理学

無境界。

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一昨日の朝、夢を思い出しかけていて、不思議の国の王様にあった夢を見たのだと思い込んでいたのだけれど、それが、数十分思い出しているうちに、
宅八郎さんが登場した夢だったことが判明。

夢の中で宅さんは、偉大なミュージシャンという設定になっていて、
不思議な楽器を個性的に奏でているのでした。道端にはアトリエなるものも存在していて。。

そしてその人の監修のもと、夢の中のわたしは洗練された音楽を演奏するために、
ひたすらトレーニングをしているのでした。

宅さんと仲の良い、智慧あるお方も登場されたのですが、あまりにもそれ以前の印象が強すぎて今の所思い出せません。

しかし何故に、オタク評論家の宅さんが。。。もしかしたら、宅さんに名前を覚えられたマヤちゃんのお友達プロフィールを読んだ後に休んだからかもしれません。
読んでいる時はそのようなことは忘れていたのですが、海馬の記憶か。

でも、思い出しかけた時は、不思議の国の夢だと思っていたのですから、
意識って不思議ですね。 個人的無意識から、この表面的な意識に変換される過程で、記憶が別物になっている可能性があるのかもしれないと思いました。

多分、ずーっと意識が鮮明で連続していたら、とっても深い部分にある記憶とか、アイデアとか理解能力が自在に使えるようになるのかもしれません。

意識といういものは不思議なもので、自分自身の思い込みとか観念が深い意識で変わっただけで、できないと思っていることができたり、苦しいと思っていたものが苦しくなくなったり、
本当にまったく変わってしまいます。

以前、あまり睡眠をとっていない時期に、火の呼吸のような、ちょっと違う訓練をしてみたことがあったのですが、その時、呼吸を止める分数が、深い意識の中で、場所、に変換されたことがありました。
2分、という時間があったとしたら、それがどこかの場所、だと意識が判断しているんですね。
その時のわたしにとっての2分は、フランスのお皿屋さんでした。
そして、そこにたどり着けば苦しくはない、と思い込んでいるんですね。
なので、2分息を止めると、それ以降まるっきり苦しくないという状況が生じました。
息を止める=その場所に行く ということに変換されていたようです。

またある時、言葉というものも意識次第なのだと感じたことがありました。
その時、ある言葉を何回も発する訓練をしていたのですが、
深い意識に入っているために、言葉というものがイメージ、と完全にイコールになったんですね。
イメージが湧かなければ言葉も存在しない、という状況でした。
そして、わたしが訓練している言葉は山脈の映像とイコールだったので、一生懸命山脈をイメージすると、その言葉を発することができるのでした。
この現実の世界は物質優位で構成されていますが、夢の世界、あるいは個人的無意識や右脳を司る意識はイメージが優位で、それは観念的言語とはまた別のものなのかもしれないと思いました。

また、あまり眠らないで、長い間チベット式の五体投地をしていた時のことです。
自分という存在さえも、実体のないものである、という体験もしました。
かなり深い意識に入った時、自分が誰かわからない、という意識になりました。
誰かわからない→名前がない→わたしというものが存在しないから言葉を発することができない といった構図が成り立っていました。
その時、生じた感情、これは人間が本来持つ自我に対する欲求かな、と思うのですが、
自分がないことが怖い、もう何でもいいから、自分という存在を持ちたい、という欲求が生じるんですね。そして一生懸命何かになろうとするのです。
そこでわたしはどういう訳か、一枚のB5の紙になっていました。
でも、B5用紙はペラペラなので、立ったり座ったりする作業をする上では非常に困難でした。 次にわたしは豆腐屋さんになっていました。この時は豆腐を売らないといけないという強迫観念に刈られて、(本気で思っているのです。)それはそれで大変でした。

あまりにも今まで守り固めてきた偽りの『自分』というものがなくなっていくので、
とりあえずまともにできるようになるまで、別の事をしよう、と思って、
座って瞑想してみました。
しばらく経つと、自分の名前や居場所などを思い出すことができました。
でも、ある意味、自分の名前やここにいると思っている場所などは、作られたものであって、
本質ではないのかもしれないですね。

この時の深い意識を、もっともっと突き詰めていったら、本質的な部分での自分自身、というものがわかるのかもしれません。

チベット密教や東洋哲学と大変近い、あるいはまったく変わらないと言っても過言ではないのではないか、と思える、トランスパーソナル心理学は、この体の中に閉じ込められた、ペルソナのわたし、ではなくて、非二元的な、意識の拡大を、そして最終的には集合無意識に到達することを説明している心理学なのではないかな、と思います。

昨日食べた魚や野菜が今のわたしの体になって。。
生命は相互に依存しあって存在していて。
生命は分子・原子レベルで繋がっている。
同じように、わたしたちの意識も繋がっていて、
だからこそ誰かのせい、というものも存在しなくて、
目の前にいる人のすること、それは、過去の家庭環境の影響かもしれないし、
教師の教育によるものかもしれないし、お友達との会話かもしれないし、
過去の自分の姿かもしれないし、未来の自分の姿かもしれないし、
もしかしたら今のわたしの投影かもしれない。

もしもそんな風に本当に考えられたなら、戦争も、対人関係における争いや
様々な問題も起きない気がします。

シャーマンがあらゆる生命体とシンクロできるのも、集合無意識に近い意識状態を体現することで、その対象と自分自身が同じであることを認識し、そこにおける非分離・非二元、一元の意識によって感じ取っているからなのかもしれません。

偉大な発明をすると、必ず何処かで同じことを発明している人がいる。
クロスワードパズルは一人で解くよりも、みんながやり始めた時の方が解きやすい。
100匹目の猿現象。

これらはわたしたち生命体の意識が深い領域で繋がっている、ということがわかる、
一部の例だと思います。

それは手の平のようなものかもしれない。
お父さん指もお母さん指も、中指も、薬指も、小指も、
わたしはお父さん指だ、とか、お母さん指だ、って思っているけれど、
ずっとしたの深い部分に潜ると、そう、手の平ですべての指が繋がっているように。

多分、集合無意識に行き来する人々が、誰かの心がわかったり、
考えもしないのに音楽が作曲できたり、
化学式が突然思い浮かんだりするのではないかな。

そしてきっと、人がみんな何処かで寂しさがあって、
人と関わったりすることを求めるのは、遠い遠い過去の記憶で、みんなが一緒だった意識状態を覚えていて、その一体感を再現したいがために、求めるのではないかな、と思うのです。

でも、『あなた』 と 『わたし』 という二元的認識が生じた時点で、近づきたいはずの対象から、どんどんどんどん離れてしまう。
わたし的には、それが現代に生きる人々の大半の悩みの根本原因になっている気がする。

わたしの心を投影しているあなた、わたしと変わらない命をもつ生命、と思えるかどうか。

もしも意識が広がり集合無意識に溶け込んだなら、それは差異によって見出される喜びとは比較にならない安堵感を得るでしょう。

かといって、身の回りでは『他社の製品とうちの製品はココが違う!』とか、
競争社会、比較によって見出される実体の伴わない価値観がある以上、
“同じ”という感覚を生起させるのは非常に困難な環境なのかもしれません。

割れたらどうしよう、とひび割れたら守り、一生懸命外側に塗料を塗ってきた瓶をパリンと割って、その卑小な水が大海の水とひとつになった時、この世界のトリックを超えて、大きな智慧を得るのかもしれない、とわたしは思います。
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by ami-cosmo | 2004-09-18 04:49 | トランスパーソナル心理学