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カテゴリ:意識の拡大( 14 )

愛について

11/2 思索

親愛なる とは、信頼し、尊敬し、親友のように自分と同じくらい、時にはそれ以上大切にすることだと思う。

また一般的な恋愛・情は偏愛であり、偽りの愛だと思います。
自分が寂しいから、満たされたいから、という背景がありますね。
(もちろんこの愛に対して高度なとらえ方をしている場合は別です。)

最愛とは信仰のことだと思う。自らの人生、生命のすべてを捧げること。
これは、対象が神でないと、あるいは対象に何らかの神秘性を見出せない限りあり得ない事ではないかと思います。

対象の成長を願う愛、あるいは平等心としての博愛は、すべてを自分と同じくらい、もしかしたら自分の事はさておき、大切にして愛すること。


わたし自身は、神に対する最愛に、人々に対する親愛に、すべての 生きとし生きる動植物への博愛に、わたしのすべてを還元したい、そう思っています。
それによってすべてが本質に還元されることのお手伝いをさせていただく事が、最大のテーマのような気がします。

いつか、お友達のお友達が勝手に占ってくれた占星学鑑定では、
『あなたは救いようが無いくらいのロマンチスト。あなたの理想の対象はこの世にいません。』
と書かれていました。 この時点で一般的には終わっているけれど、当時は、
(でも、ということはあの世にはいるということなんだ。)と思い、至福感が少なからず湧いたわたしは、やっぱり変わっているのかもしれない。。。
ただ、別の占星学鑑定では、恋愛によって、人生が180度変わるような幸運を得る、とか書いてあったけれども。

人に対して理想を求めるよりも、まず自らが一歩でもその状態を体現すること、広げることが最重要項目だと考えています。

伝えたいと思うことよりも祈ること。
どこまでできているかばかり考えるよりも、どこまで到達したいかに集中すること。

時にわたしが意図的に痛みを与えてしまうことがあるとしたら、それは嫌いだからではなく、自分自身の中で最も大切だと思えるからしていること。

例えばその人がお腹がすいていても、目の前のお饅頭に毒が入っているとしたら、わたしはそのお饅頭を何とかして隠します。
例えば対象が麻薬中毒一歩手前の状態で、もがきながら、もっと、と求めていても、わたしは最後まで別の方法をとって解決したいと願います。

それは痛みを伴うかもしれないけれど、本当に大切にする上で生起する試練だと思うのです。 
母親は、自分自身の子供がどういう子供でも、どんな状態になっても、何かを練習している課程でできないことがあっても、いつかは変わる、できるようになる、と信じてその成長を願い育みますね。 愛とは忍耐だとどこかで聞いたことがあるけれど、そうなのかもしれないとも思ったりします。

そこにおいて、自ら放棄せず、対象がどんな状態でも信じて、心を強くして見守り、最も最善の方法で、安らぎながら超えられる方法を見出すことが智慧であり、愛ではないかと思うんですね。
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by ami-cosmo | 2004-11-02 10:29 | 意識の拡大

無意識の意識化。

Biotopeで、闇と光の統合についてのお話をしたので、転載。。


もしも明晰夢によって、意識をクリアにし、未完了だった記憶を完了させることができるなら、それは心における最善の、環境問題の手助けとなるでしょうね。

似たような意識の概念では、少年犯罪をユング心理学的観点から見た、闇と光の統合に関するお話を、K先生がされていたことがありました。
カトリックには、精神病患者が少なかったらしいですが、それに関して、ユングは、「カトリックはシンボルが生きている。」 と表現していたそうです。

無意識を意識化することで、幼児期の家庭環境におけるトラウマのループから解放される。
明晰夢などは、まさに有効な手段でしょうね。
エジプトフォーラムで古代文明について語っていたある教授も、古代の人は、シンボリックな存在を大切にすることで、神の世界と自らを繋げていた、と語っていました。

昔の人は紙芝居や地獄絵などを見て、悪いことをしたら、こうなるといった価値観や、自分自身の闇の部分を、シンボルとして認識していたけれど、
科学万能主義の現代においては、それがなされていないのだと。

それによって、無意識にある闇の要素が意識と統合されず、その抑圧された要素が潜在意識に入る思春期になると、出てくるのだそうです。

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子供は、自分にご飯を食べさせてくれる親に対しては、神様のように絶対的な存在として捕らえていて、無抵抗だから、恨むこともなく、
その投影として、少年期に入った時、自分から見て無抵抗な幼児に対してその時の自分の叫びを叫ばせたい、という意識によって、投影するのだそうです。

これらはすべて、偶像を排除する考え方や、意識と無意識が二元的に分離していることから来ている、と。
すなわち、変えなければならないのは教育レベルではない、ということですね。

わたしたちは文化のレベルでもっと闇と光を統合する必要があるのかもしれません。

 
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by ami-cosmo | 2004-10-17 03:11 | 意識の拡大

的を射るのではなく、己と的をひとつに

「真実に向かおうとする意志」
功夫天下の部長が、本質的な概念を書いていたので、トラックバックさせていただきました。

私は『結果』だけを求めてはいない
 『結果』だけを求めていると
 人は近道をしたがるものだ…
 近道した時 真実を見失うかもしれない
 やる気も次第に失せていく
 大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている
 向かおうとする“意志さえあれば”いつかはたどり着くだろう?
 向かっているわけだからな…違うかい?


これ、本当にそうですね。
東大でノーベル賞を目指していたという、V様もおっしゃっていました。

目的と手段、が分離している限り、それは二元的意識だと。
そして、二元的意識によって苦しみが生じる、と。

例えば目標があったとして、そのために努力する。
でも、それが精神的達成の場合、そのための鍛錬、では二元的思考になってしまうのだそうです。
目標ばかり意識してしまって、その鍛錬に意識が集中していない状態ですね。
だからこそ、そこにおける障害が生じた時、放棄してしまったり、立ち止まってしまうのだと。

もしも鍛錬そのものが目標と統合されていれば、その鍛錬自体が目標になり得るのだということでした。

ということは、今、目標を持っている人は、この生活そのものが目標の中に組み込まれているということになるのでしょうね。
こうなりたいから、これを達成したいから今がある、のではなく、今生きていることそのものが、目標そのもの。
そうだとしたら、焦ることもなく、また他と比較することもなく、今、この瞬間をひたむきに奮闘できるということなのだと思います。

また、以前、心の旅で瞑想していた時、ふと、このような気づきがありました。

わたしたちの意識はいつも、過去に対するとらわれと、未来への渇望から成っている。でも、本当に良かったと思える過去とは、今、この瞬間に集中していた時、だ。
だからこそ、本当に有意義な時、とは、今この瞬間に集中して生きることに違いない。


目的のための補助ではなく、喜びのための手段でもなく、今、この瞬間生きていることそのものは、努力することを止めない限り、目標とひとつである存在なのですね。
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by ami-cosmo | 2004-10-11 22:07 | 意識の拡大

生命は無限に伸びる。

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おはようございます。

名古屋からのお手伝いの女の子が4時で帰るとのことで、時間との戦いでした。
一昨日卵を使い切ったので、昨日は卵がなくて、卵がなくてもできるお菓子、と想いを巡らせていました。
お菓子の本を見ると、ハニークッキーやビスケット、ココナッツジュースゼリーなど、
作れそうなものがいろいろとありました。

でも、10分という限られた枠組みの中で、オーブンものは不可。
スイートパンプキンがいい!と思いついたけれど、カボチャも見当たらず。。

手は別の動作をしながら、イメージでは材料をひとつひとつ思いうかべて、
決まったのが、『ワカメとオニオンの生姜あえ』でした。
あまり作ったことのない、おかずを作る良い機会になりました。

一昨日の深夜、発送準備のために送迎してくださったKさんが、
「お菓子、とっても心がこもっているね。伝わってくるよ。」
とおっしゃってくださいました。  

みんなにも伝わっているんだ。。 わたしがいつもお菓子作りで込める気持ち

神々に捧げられるような、素敵なお菓子になるように。
このお菓子を作ることで、みんなが幸せになるように。
このお菓子を食べる人が、元気になるように。

もしも神々が喜んでくださったら、とっても嬉しい。
みんなが喜んでくれたら、とっても嬉しいです。

「わたし、実家にいた頃は、全然お菓子なんて作っていなかったし、家の手伝いも全然しない人だったんです。でも、ある時から、そういうことが大好きになって。。。。』

そうわたしがお話すると、Kさんは、

「そうだよね、わたしもそうだろうと思っていたよ。まだ生きている年数もそんなに経っていないわけだし、あまり作った経験もないよね。」 と。

考えてみると、確かにそうだなって。どちらかといえば、自分では苦手分野なのではないかと思っていたようなこと。掃除、お料理、お菓子つくり、洗濯、消耗品のお買い物、など。
想えば東京にいたころ、とてもお世話になった方が、わたしのことを育てようと、一ヶ月間の機関を与えてくださって、本当に丁寧に片付けやお買い物など一緒にしてくださったことがありました。
その頃からか、もっと以前からか、わたしの中にある、眠っていた潜在的要素が、
呼び覚まされているような感じがします。

Kさんは、「きっとそれは前生のものなんじゃない?」 とおっしゃっていました。

もしかしたらそうなのかもしれない。
そして、わたしたちの記憶や意識の中には、今まだ現れていない、たくさんの潜在的要素が眠っているのかもしれない、と思ったりしたのでした。

例えば、他にも、わたしは小さい頃、体が硬かったのに、柔らかい人を見て、
すごいすごい!と嬉しくてみんなに話していたら、
いつの間にか自分も同じくらいやわらかくなっていた、といったこともありました。
それは称賛することで、その人のプラスの要素を吸収して、自らのベクトルをその方向に向けられた、ということもあるのかもしれないけれど、自分自身の中にある潜在的要素も確実に引き出されたのだと思います。

その方はヨガの達人で、三点倒立のできなかった当時12歳のわたしに、
「いつも足で歩いていると思うから、重心が頭に行かないんだよ。いつも、頭で歩いているって思えばいいんだよ。」
というアドバイスをくださったのでした。
そうか、と思って、いつもあたりまえに足で歩いているイメージを、いつもあたりまえに頭で歩いているイメージに切り替えてみました。
すると、重心を頭に移動して、静かに安定した倒立をすることができたのでした。

この時のことを思い出してみても、わたしたちの中には、きっといろんな多くの潜在的能力とか、可能性や、記憶があるのだけれど、それがアビリティに変換されていないだけなのだな、と思うのです。
その潜在性の具現化を妨げているのが、わたしはできない、といった観念や、他を否定することを含む否定的要素なのかもしれません。

可能性、について考える時、いつも、「生命は無限に伸びる」と提言して、それを実現化した
偉大な人物、野沢重雄さんを思い出します。
ガイアシンフォニーにも登場するハイポニカのトマト。
通常だったら、一年草で、背もそんなに伸びず、数個しか実がならないトマトに対して、
遺伝子組み替えなどまったくせずに、ハイドロポニカによって育て、芽が出た時に、
「君はトマトだけれど、ぼくが、君に必要な水と、栄養と、光をあげるから、いくらでも伸びていいんだよ。」
と言ってあげたのだそうです。
それによってそのトマトは生命の持つ無限の力を発揮して、トマトの木、になったのでした。
しかも、たくさんのトマトができたら、味が薄そうな気がするけれど、そのトマト、
フルーツトマトと認定を受ける、甘くておいしいトマトなのだということでした。


ガイアシンフォニーより抜粋。

野澤重雄(植物学者)
●「トマトは心を持っている。私は、そのトマトの心にたずね、トマトに教わりながら、成長の手助けをしただけなんです。」たった一粒のごく普通のトマトの種から、バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わず、一万三千個も実のなるトマトの巨木を作ってしまった野澤重雄さんはそう語る。この映画では、トマトの種植えから一万三千個も実のなら巨木に成長するまでの過程を克明に記録しながら、野沢重雄さんのトマト生命哲学を聞く。科学の実証主義的方法を踏まえながら、科学の常識では理解できない奇跡を現実に見せてくれる野沢さんとトマト
『神とは、高度な自然のメカニズムの実体のことである』~野澤重雄



一粒のトマトの中に、無限を見出せるなら、
その人は、すべての中に神を見出せるのかもしれないですね。

このお話は、以前、古代文明の講座を受講した時、先生がお話してくださったのでした。

古代エジプトで成し遂げられたピラミッドの偉業も、純粋な心からなる純粋な知性によって成し遂げられていたのではないか、ということでした。

古代エジプトに関する書物には、ヘカ、あるいはヘカト、という言葉が出てくるそうなのですが、この言葉は訳すと“魔力”なのだそうです。
そしてこの魔力とは、スピリチュアリティ、生命の持つ無限の力のことではないかということでした。

小さなトマトの苗が、大きなトマトの大木になる。 そんな生命の無限の力を、古代の人は知っていたのでしょうね。

古代の人と現代の人のギャップは、精神性にあるといえるのかもしれません。
例えば、インディアンの人々は、春芽吹く大地は母のような存在であり、その大地に欧米の一部の人が足に金具を着けた馬でやってくるのは、母の胸にナイフをつき刺されているかのようにとてもつらいことだと言われています。  でも、その一部の欧米の人は、何故彼らが悲しむのかがわからないのだそうです。

このギャップをもっとさらに大きくしたものが、現代人と古代人のギャップなのだと。

エチオピアに関する平和活動をしているある女性は、小さいころから人の心が伝わってきた、といいます。
だから、こんなに伝わってくるのに、どうして人の嫌がることをみんなができるのかがわからなかった、と。

そして、本来わたしたちは、自分自身で自分の状態がわかるはずだと。それは、肝臓がここにあって、心臓がここにあって、と習わなくても、写真を見なくても、自分自身のことは感じられるはずだと語っていました。

確かにそうですね。そこまで感覚がずれていて、自分のことさえ正確にわからなかったら、
まわりの人のことが正確に、ありのままにとらえられなくても当然なのかもしれないと思いました。

わたしたちが純粋な心から成る純粋な知性を思い出すことで、生命の持つ無限の力が、
無限の可能性が、顕現化したら良いな、と思います。


昨日の工場に行く車の中、名古屋からのお手伝いの女の子が、ふと、
「木に生まれ変わったら、暇で暇で仕方がないだろうな。」 といいました。
わたしは、
 「植物は、光合成をして、わたしたちに酸素を与えて、切られて紙になったり、家になったり、ある時は食べられたり。でも、何も言わないし、意識が高い存在のような気がする。」
 と答えました。

木になったら。。。と思うと、葉っぱのフレディを思い出します。
死を迎える子供たちが、死をありのままに見つめられるように、そして、死について説明のできない大人たちのために描かれた絵本。

その中で葉っぱは、ある時は風にゆられて、ある時は人々のために木陰を作って、
一生を通じてその役割を果たします。

わたしたちが見えないところで、わたしたちを守ってくださっている存在に感謝したいな、って思います。
それはきっと、葉っぱだけではなくて、地球に存在するすべてが、何らかの形で、わたしたちを助けてくれていて、でも、きっとまだ目の曇っているわたしは、たまにその断片を垣間見ることくらいしかできていないような気がします。

以前、ホロトロピックセラピーを受けた時、深い意識の中で、身体が微細な痺れと光に包まれて、自分が粒々になって宇宙に溶け込んだことがありました。その時、無数の光の粒粒が、宇宙空間に広がっていて、よく見るとその一粒一粒が、わたしのまわりにいる一人一人だったのでした。そして、一人一人がみんな光だったんだ、と思った瞬間、その光の粒粒であるみんなが、マンダラに出てくるような神々に変化したのです。とても壮大で、透明で、微細な、無数の神々のいる宇宙空間を、突き抜けて行きました。
まわりの人も、見えてくる山の中の葉っぱも、すべてが神々なんですね。
とても感銘を受けました。

古代の人は、もしかしたら、日常的にそのような意識の拡大を経験していて、
だからこそ、一厘の花の中に、すべての中に、神を見出していたのかもしれないですね。


 
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by ami-cosmo | 2004-09-16 04:55 | 意識の拡大