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カテゴリ:東洋哲学( 24 )

友人のレポート課題

友人の大学院で出たレポート課題。紹介して良いとのことだったので、ご紹介します。

転載


課題:「絶対的価値観の存在しないニヒリズム時代においてどのように生きるべきか」

私なりの答:
「この世の中に絶対的価値というものは,存在するのか」これは,古くから様々な宗教学者や哲学者が議論してきたテーマの一つである.また,近年,数学者のゲーテルによってすべてを解き明かす完全な理論体系を構築することは論理的に不可能であるという「不完全性の定理」が証明されている.アリストテレスは,無限を「可能的無限」と「現実的無限」に分類したが,この不完全性の定理によると,この世が現実であるかどうかは非決定的であり,この相対的次元の世界において現実的無限,すなわち「絶対・普遍性」は存在しないことになる.このような考え方は,一般に現代のニヒリズムの思想と同等であると考えられる.ニヒリズムは,絶対的な価値観を否定するものであり,釈迦の「空の思想」や老子の「無」の思想と似ている.では,このような絶対的な価値観の存在しない世界において私たちはどのように生きればよいのであろうか.私は,釈迦の教えを参考にこれからの生き方をどうすべきかを考えてみたい.
 まず,釈迦の説いた教えの中で有名なのが,「この世は一切無常である」という教えである.この教えは,物質,財産,家族,心,意識,意志等すべての万物は必ず変化するものであり,絶対的なものは存在しないという考え方である.これは,この世は相対次元であることを意味している.例えば,すべての生命は,必ず生・老・病・死の過程を通過するため,現在状態を永遠に保つことはできない.では,このような相対次元の世界において釈迦はどのように生きるべきかと解いているのであろう.人間がこの世で様々な苦しみや苦悩から解放されないのは,人間が相対的な価値観に捕らわれているからだという.すなわち,相対的に変化するものに固執・執着するがために人々は様々な苦しみに悩まされるのである.確かに,我々は,相対的次元において生活しているため,他者や過去の自分と比較して生きる習性がある.このとき現在の自分が他者や過去の自分より優位な状態のときは満足感を感じるが,自分が劣っている状態のときは,不満・劣等感を感じるではないだろうか.また,釈迦が悟った当時,「空の思想」を説いているが,これは,すべての事象には実態がない,すなわちすべての事象は幻影であると解いている.しかし,この思想は,すべてが幻影なのだから何もするなという教えではない.この教えの真髄は,すべての事象が相対的なもので,絶対普遍なものでないため,それに捕らわれることなく,一瞬一瞬を大切に生きよという意味だと思われる.
 この世は,相対的な世界であり,絶対的価値観や真理というものは存在しないのは確かだと思う.そして,絶対が否定されることによって,相対的解釈の可能的無限性や多様性が創発される.例えば,善悪という概念も相対的であるため,ある集団において善とみなされるものが,他の集団では悪とみなされることになる.逆に相対的解釈をする人間のいない自然界では,善も悪も存在しない.私は,このような相対次元の世界では,相対的価値観に捕らわれることなく,釈迦の教えのように,あらゆる事象に対して頓着せずに,淡々と前向きに生きるべきだと思う.

転載終了

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by ami-cosmo | 2005-07-04 23:01 | 東洋哲学

報いのメカニズム。


夢を研究する博士より、報いのメカニズムに関する考察をご報告いただきましたのでご紹介します。


こんにちは、報いのメカニズムを三つの視点で分析します。

 最初はまず唯識論から。行為aは識別(二元)なので、識別-aが同時発生
する。この-aはやがて投影され、-a′を招くがその他者はa′を為してる
わけです。唯識論はアサンガ、ヴァスバンドゥなどが書いてます。

 二番めは、この世がぼくらの投影だとして。過去に為したaに他者が感応す
ればその他者はa′を為す。これが自分には-a′と映ります。投影論は佐保
田氏の「ヨーガ・スートラ」がヒントになった。

 次は集合夢について。実数は特殊な複素数であるが、現実も特殊な夢だと考
えられます。集合夢つまり大規模な共有夢、これは一切の体験が自分であると
いうことを表す。自分が望まない体験(不幸)は今を投影するわけぢゃなく、
過去の自分ですね。「悪夢」も願望説は当てはまらないし。

 「夢」と「報い」は統一できます。あとは数学的に表現……

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by ami-cosmo | 2005-05-27 21:57 | 東洋哲学

生まれ変わりの発想 、チベット死者の書の世界観。

先日、アクション映画俳優目指す、功夫天下のお友達から質問が来ました。
K先生の東洋哲学講座で、ブッダの前世のお話が出てきたのだけれど、息子が毒蛇に噛まれて亡くなっても悲しまず、またその家族も悲しまなかったというお話が出てきたらしいんですね。 それで、それは人間らしくない、機械のような感情なのではないか、という印象をもったということでした。

それに関して、わたしはわたしなりにそのお話から読み取れる輪廻の発想についての概念と、愛と愛情についての考えをお返事として出しました。
その文をこちらでも転載しておきます。

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チベット死者の書を見たことあるかな。
仏教では、わたしたちは死んだら終わりではなくて、魂はどこかの世界に49日間の間に生まれ変わるって言われているの。

だからきっと、仏典の世界では、息子を大切に思っていなかったのではなくて、もう魂が旅立った後、無常の身体である抜け殻に対して悲しんでも仕方がないということをいっているので
はないかな。
インドやチベットでは、みんなこの現実で生きているうちから善の行いや心の働きを積み重ねていて、死をこわいもの、として認識していないみたいだね。
転生先はすべてこの現実での行いによって決まるから、ある意味、この世界はジャンプ台ともいえる。
そして、高い世界に魂がいこうとしている場合、その近くで泣いたりすると、魂は安全に中間状態をわたることが困難になってしまうようなのです。
ということは、何が一番、対象にとって、メリットがあるかと
いうと、悲しまず、高い世界へ旅立つことを祈ることなんだよね。

日本の概念とは180度違うけれど、それをしているのが、チベットのラマなんだと思う。
死者の耳元で49日間の間、死者が迷わずに高い世界へ至れる
ように、不安にならないように、道案内をしてあげるの。それがチベットに伝わる埋蔵経、バルドトドゥルなんだよね。
日本では黒い服を着るけれど、インドやチベットの世界観では黒は低い世界の色とされていて、死後の旅に出ている魂のそばでは、できるだけきれいな色を着るほうが良い影響があると考えられているみたい。
愛情と愛は違うといわるけれど、悲しいから泣く、ということに関して、
自分が悲しいから泣く、離れたくないから泣く、という場合は、やっぱり本当に対象のため、ではないんだよね。
本当にその人を大切に思うなら、その対象が迷わずに高い世界
に旅立てるように祈ることの方が、最善を尽くすほうが、愛と言えるのかもしれないとわたしは思うの。
だから、わたしはわたしが死後の旅に出たら、力あるラマ
に導いてほしいと思うし、まわりの人には泣かないで祈っていてほしいと思う。
その方が動揺せずに選択できるから、またみんなのそばに行けるかもしれないしね。

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質問へのお返事なので、簡略化されていますが、日本とチベットにおける死についての概念と生についての概念は、根本的に違う、とわたしは考えています。
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by ami-cosmo | 2005-05-02 21:19 | 東洋哲学

ナーガルジュナ


龍樹菩薩の空論に関する興味深い解説。
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by ami-cosmo | 2005-01-30 02:20 | 東洋哲学