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かんたん体操。

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最近はこんな話題が出ている模様。

9月2日~10月28日(毎週木曜日)午後10:00~10:30
再放送は一週間後の午後0:30~1:00
NHK教育「NHK趣味悠々」木曜枠
「強くてキレイ」をめざす カンフー・フィットネス

陳静さん、姿勢が良いですねー。


強くてキレイ、になったら素晴らしいですね。


体を動かすこと、と言えば、昨日はお姉様から、左右の体の歪みと骨盤の歪みを修正する、かんたん体操を伝授していただきました。
東洋医学を研究されている、マザーテレサのような看護婦さんに教えていただいたとか。

ひとつの姿勢を30分~50分、とか、同じ動作を30回の5セット、とか、
わりとハードなものもあるのですが、終わってみて、体がすごくすっきりしていて、軽くて
真っ直ぐ歩きやすくなった感覚があります。効果が高いのでしょうね。毎日続けられたらいいな、と思います。


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# by ami-cosmo | 2004-09-20 03:53 | 東洋医学

無境界。

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一昨日の朝、夢を思い出しかけていて、不思議の国の王様にあった夢を見たのだと思い込んでいたのだけれど、それが、数十分思い出しているうちに、
宅八郎さんが登場した夢だったことが判明。

夢の中で宅さんは、偉大なミュージシャンという設定になっていて、
不思議な楽器を個性的に奏でているのでした。道端にはアトリエなるものも存在していて。。

そしてその人の監修のもと、夢の中のわたしは洗練された音楽を演奏するために、
ひたすらトレーニングをしているのでした。

宅さんと仲の良い、智慧あるお方も登場されたのですが、あまりにもそれ以前の印象が強すぎて今の所思い出せません。

しかし何故に、オタク評論家の宅さんが。。。もしかしたら、宅さんに名前を覚えられたマヤちゃんのお友達プロフィールを読んだ後に休んだからかもしれません。
読んでいる時はそのようなことは忘れていたのですが、海馬の記憶か。

でも、思い出しかけた時は、不思議の国の夢だと思っていたのですから、
意識って不思議ですね。 個人的無意識から、この表面的な意識に変換される過程で、記憶が別物になっている可能性があるのかもしれないと思いました。

多分、ずーっと意識が鮮明で連続していたら、とっても深い部分にある記憶とか、アイデアとか理解能力が自在に使えるようになるのかもしれません。

意識といういものは不思議なもので、自分自身の思い込みとか観念が深い意識で変わっただけで、できないと思っていることができたり、苦しいと思っていたものが苦しくなくなったり、
本当にまったく変わってしまいます。

以前、あまり睡眠をとっていない時期に、火の呼吸のような、ちょっと違う訓練をしてみたことがあったのですが、その時、呼吸を止める分数が、深い意識の中で、場所、に変換されたことがありました。
2分、という時間があったとしたら、それがどこかの場所、だと意識が判断しているんですね。
その時のわたしにとっての2分は、フランスのお皿屋さんでした。
そして、そこにたどり着けば苦しくはない、と思い込んでいるんですね。
なので、2分息を止めると、それ以降まるっきり苦しくないという状況が生じました。
息を止める=その場所に行く ということに変換されていたようです。

またある時、言葉というものも意識次第なのだと感じたことがありました。
その時、ある言葉を何回も発する訓練をしていたのですが、
深い意識に入っているために、言葉というものがイメージ、と完全にイコールになったんですね。
イメージが湧かなければ言葉も存在しない、という状況でした。
そして、わたしが訓練している言葉は山脈の映像とイコールだったので、一生懸命山脈をイメージすると、その言葉を発することができるのでした。
この現実の世界は物質優位で構成されていますが、夢の世界、あるいは個人的無意識や右脳を司る意識はイメージが優位で、それは観念的言語とはまた別のものなのかもしれないと思いました。

また、あまり眠らないで、長い間チベット式の五体投地をしていた時のことです。
自分という存在さえも、実体のないものである、という体験もしました。
かなり深い意識に入った時、自分が誰かわからない、という意識になりました。
誰かわからない→名前がない→わたしというものが存在しないから言葉を発することができない といった構図が成り立っていました。
その時、生じた感情、これは人間が本来持つ自我に対する欲求かな、と思うのですが、
自分がないことが怖い、もう何でもいいから、自分という存在を持ちたい、という欲求が生じるんですね。そして一生懸命何かになろうとするのです。
そこでわたしはどういう訳か、一枚のB5の紙になっていました。
でも、B5用紙はペラペラなので、立ったり座ったりする作業をする上では非常に困難でした。 次にわたしは豆腐屋さんになっていました。この時は豆腐を売らないといけないという強迫観念に刈られて、(本気で思っているのです。)それはそれで大変でした。

あまりにも今まで守り固めてきた偽りの『自分』というものがなくなっていくので、
とりあえずまともにできるようになるまで、別の事をしよう、と思って、
座って瞑想してみました。
しばらく経つと、自分の名前や居場所などを思い出すことができました。
でも、ある意味、自分の名前やここにいると思っている場所などは、作られたものであって、
本質ではないのかもしれないですね。

この時の深い意識を、もっともっと突き詰めていったら、本質的な部分での自分自身、というものがわかるのかもしれません。

チベット密教や東洋哲学と大変近い、あるいはまったく変わらないと言っても過言ではないのではないか、と思える、トランスパーソナル心理学は、この体の中に閉じ込められた、ペルソナのわたし、ではなくて、非二元的な、意識の拡大を、そして最終的には集合無意識に到達することを説明している心理学なのではないかな、と思います。

昨日食べた魚や野菜が今のわたしの体になって。。
生命は相互に依存しあって存在していて。
生命は分子・原子レベルで繋がっている。
同じように、わたしたちの意識も繋がっていて、
だからこそ誰かのせい、というものも存在しなくて、
目の前にいる人のすること、それは、過去の家庭環境の影響かもしれないし、
教師の教育によるものかもしれないし、お友達との会話かもしれないし、
過去の自分の姿かもしれないし、未来の自分の姿かもしれないし、
もしかしたら今のわたしの投影かもしれない。

もしもそんな風に本当に考えられたなら、戦争も、対人関係における争いや
様々な問題も起きない気がします。

シャーマンがあらゆる生命体とシンクロできるのも、集合無意識に近い意識状態を体現することで、その対象と自分自身が同じであることを認識し、そこにおける非分離・非二元、一元の意識によって感じ取っているからなのかもしれません。

偉大な発明をすると、必ず何処かで同じことを発明している人がいる。
クロスワードパズルは一人で解くよりも、みんながやり始めた時の方が解きやすい。
100匹目の猿現象。

これらはわたしたち生命体の意識が深い領域で繋がっている、ということがわかる、
一部の例だと思います。

それは手の平のようなものかもしれない。
お父さん指もお母さん指も、中指も、薬指も、小指も、
わたしはお父さん指だ、とか、お母さん指だ、って思っているけれど、
ずっとしたの深い部分に潜ると、そう、手の平ですべての指が繋がっているように。

多分、集合無意識に行き来する人々が、誰かの心がわかったり、
考えもしないのに音楽が作曲できたり、
化学式が突然思い浮かんだりするのではないかな。

そしてきっと、人がみんな何処かで寂しさがあって、
人と関わったりすることを求めるのは、遠い遠い過去の記憶で、みんなが一緒だった意識状態を覚えていて、その一体感を再現したいがために、求めるのではないかな、と思うのです。

でも、『あなた』 と 『わたし』 という二元的認識が生じた時点で、近づきたいはずの対象から、どんどんどんどん離れてしまう。
わたし的には、それが現代に生きる人々の大半の悩みの根本原因になっている気がする。

わたしの心を投影しているあなた、わたしと変わらない命をもつ生命、と思えるかどうか。

もしも意識が広がり集合無意識に溶け込んだなら、それは差異によって見出される喜びとは比較にならない安堵感を得るでしょう。

かといって、身の回りでは『他社の製品とうちの製品はココが違う!』とか、
競争社会、比較によって見出される実体の伴わない価値観がある以上、
“同じ”という感覚を生起させるのは非常に困難な環境なのかもしれません。

割れたらどうしよう、とひび割れたら守り、一生懸命外側に塗料を塗ってきた瓶をパリンと割って、その卑小な水が大海の水とひとつになった時、この世界のトリックを超えて、大きな智慧を得るのかもしれない、とわたしは思います。
# by ami-cosmo | 2004-09-18 04:49 | トランスパーソナル心理学

生命は無限に伸びる。

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おはようございます。

名古屋からのお手伝いの女の子が4時で帰るとのことで、時間との戦いでした。
一昨日卵を使い切ったので、昨日は卵がなくて、卵がなくてもできるお菓子、と想いを巡らせていました。
お菓子の本を見ると、ハニークッキーやビスケット、ココナッツジュースゼリーなど、
作れそうなものがいろいろとありました。

でも、10分という限られた枠組みの中で、オーブンものは不可。
スイートパンプキンがいい!と思いついたけれど、カボチャも見当たらず。。

手は別の動作をしながら、イメージでは材料をひとつひとつ思いうかべて、
決まったのが、『ワカメとオニオンの生姜あえ』でした。
あまり作ったことのない、おかずを作る良い機会になりました。

一昨日の深夜、発送準備のために送迎してくださったKさんが、
「お菓子、とっても心がこもっているね。伝わってくるよ。」
とおっしゃってくださいました。  

みんなにも伝わっているんだ。。 わたしがいつもお菓子作りで込める気持ち

神々に捧げられるような、素敵なお菓子になるように。
このお菓子を作ることで、みんなが幸せになるように。
このお菓子を食べる人が、元気になるように。

もしも神々が喜んでくださったら、とっても嬉しい。
みんなが喜んでくれたら、とっても嬉しいです。

「わたし、実家にいた頃は、全然お菓子なんて作っていなかったし、家の手伝いも全然しない人だったんです。でも、ある時から、そういうことが大好きになって。。。。』

そうわたしがお話すると、Kさんは、

「そうだよね、わたしもそうだろうと思っていたよ。まだ生きている年数もそんなに経っていないわけだし、あまり作った経験もないよね。」 と。

考えてみると、確かにそうだなって。どちらかといえば、自分では苦手分野なのではないかと思っていたようなこと。掃除、お料理、お菓子つくり、洗濯、消耗品のお買い物、など。
想えば東京にいたころ、とてもお世話になった方が、わたしのことを育てようと、一ヶ月間の機関を与えてくださって、本当に丁寧に片付けやお買い物など一緒にしてくださったことがありました。
その頃からか、もっと以前からか、わたしの中にある、眠っていた潜在的要素が、
呼び覚まされているような感じがします。

Kさんは、「きっとそれは前生のものなんじゃない?」 とおっしゃっていました。

もしかしたらそうなのかもしれない。
そして、わたしたちの記憶や意識の中には、今まだ現れていない、たくさんの潜在的要素が眠っているのかもしれない、と思ったりしたのでした。

例えば、他にも、わたしは小さい頃、体が硬かったのに、柔らかい人を見て、
すごいすごい!と嬉しくてみんなに話していたら、
いつの間にか自分も同じくらいやわらかくなっていた、といったこともありました。
それは称賛することで、その人のプラスの要素を吸収して、自らのベクトルをその方向に向けられた、ということもあるのかもしれないけれど、自分自身の中にある潜在的要素も確実に引き出されたのだと思います。

その方はヨガの達人で、三点倒立のできなかった当時12歳のわたしに、
「いつも足で歩いていると思うから、重心が頭に行かないんだよ。いつも、頭で歩いているって思えばいいんだよ。」
というアドバイスをくださったのでした。
そうか、と思って、いつもあたりまえに足で歩いているイメージを、いつもあたりまえに頭で歩いているイメージに切り替えてみました。
すると、重心を頭に移動して、静かに安定した倒立をすることができたのでした。

この時のことを思い出してみても、わたしたちの中には、きっといろんな多くの潜在的能力とか、可能性や、記憶があるのだけれど、それがアビリティに変換されていないだけなのだな、と思うのです。
その潜在性の具現化を妨げているのが、わたしはできない、といった観念や、他を否定することを含む否定的要素なのかもしれません。

可能性、について考える時、いつも、「生命は無限に伸びる」と提言して、それを実現化した
偉大な人物、野沢重雄さんを思い出します。
ガイアシンフォニーにも登場するハイポニカのトマト。
通常だったら、一年草で、背もそんなに伸びず、数個しか実がならないトマトに対して、
遺伝子組み替えなどまったくせずに、ハイドロポニカによって育て、芽が出た時に、
「君はトマトだけれど、ぼくが、君に必要な水と、栄養と、光をあげるから、いくらでも伸びていいんだよ。」
と言ってあげたのだそうです。
それによってそのトマトは生命の持つ無限の力を発揮して、トマトの木、になったのでした。
しかも、たくさんのトマトができたら、味が薄そうな気がするけれど、そのトマト、
フルーツトマトと認定を受ける、甘くておいしいトマトなのだということでした。


ガイアシンフォニーより抜粋。

野澤重雄(植物学者)
●「トマトは心を持っている。私は、そのトマトの心にたずね、トマトに教わりながら、成長の手助けをしただけなんです。」たった一粒のごく普通のトマトの種から、バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わず、一万三千個も実のなるトマトの巨木を作ってしまった野澤重雄さんはそう語る。この映画では、トマトの種植えから一万三千個も実のなら巨木に成長するまでの過程を克明に記録しながら、野沢重雄さんのトマト生命哲学を聞く。科学の実証主義的方法を踏まえながら、科学の常識では理解できない奇跡を現実に見せてくれる野沢さんとトマト
『神とは、高度な自然のメカニズムの実体のことである』~野澤重雄



一粒のトマトの中に、無限を見出せるなら、
その人は、すべての中に神を見出せるのかもしれないですね。

このお話は、以前、古代文明の講座を受講した時、先生がお話してくださったのでした。

古代エジプトで成し遂げられたピラミッドの偉業も、純粋な心からなる純粋な知性によって成し遂げられていたのではないか、ということでした。

古代エジプトに関する書物には、ヘカ、あるいはヘカト、という言葉が出てくるそうなのですが、この言葉は訳すと“魔力”なのだそうです。
そしてこの魔力とは、スピリチュアリティ、生命の持つ無限の力のことではないかということでした。

小さなトマトの苗が、大きなトマトの大木になる。 そんな生命の無限の力を、古代の人は知っていたのでしょうね。

古代の人と現代の人のギャップは、精神性にあるといえるのかもしれません。
例えば、インディアンの人々は、春芽吹く大地は母のような存在であり、その大地に欧米の一部の人が足に金具を着けた馬でやってくるのは、母の胸にナイフをつき刺されているかのようにとてもつらいことだと言われています。  でも、その一部の欧米の人は、何故彼らが悲しむのかがわからないのだそうです。

このギャップをもっとさらに大きくしたものが、現代人と古代人のギャップなのだと。

エチオピアに関する平和活動をしているある女性は、小さいころから人の心が伝わってきた、といいます。
だから、こんなに伝わってくるのに、どうして人の嫌がることをみんなができるのかがわからなかった、と。

そして、本来わたしたちは、自分自身で自分の状態がわかるはずだと。それは、肝臓がここにあって、心臓がここにあって、と習わなくても、写真を見なくても、自分自身のことは感じられるはずだと語っていました。

確かにそうですね。そこまで感覚がずれていて、自分のことさえ正確にわからなかったら、
まわりの人のことが正確に、ありのままにとらえられなくても当然なのかもしれないと思いました。

わたしたちが純粋な心から成る純粋な知性を思い出すことで、生命の持つ無限の力が、
無限の可能性が、顕現化したら良いな、と思います。


昨日の工場に行く車の中、名古屋からのお手伝いの女の子が、ふと、
「木に生まれ変わったら、暇で暇で仕方がないだろうな。」 といいました。
わたしは、
 「植物は、光合成をして、わたしたちに酸素を与えて、切られて紙になったり、家になったり、ある時は食べられたり。でも、何も言わないし、意識が高い存在のような気がする。」
 と答えました。

木になったら。。。と思うと、葉っぱのフレディを思い出します。
死を迎える子供たちが、死をありのままに見つめられるように、そして、死について説明のできない大人たちのために描かれた絵本。

その中で葉っぱは、ある時は風にゆられて、ある時は人々のために木陰を作って、
一生を通じてその役割を果たします。

わたしたちが見えないところで、わたしたちを守ってくださっている存在に感謝したいな、って思います。
それはきっと、葉っぱだけではなくて、地球に存在するすべてが、何らかの形で、わたしたちを助けてくれていて、でも、きっとまだ目の曇っているわたしは、たまにその断片を垣間見ることくらいしかできていないような気がします。

以前、ホロトロピックセラピーを受けた時、深い意識の中で、身体が微細な痺れと光に包まれて、自分が粒々になって宇宙に溶け込んだことがありました。その時、無数の光の粒粒が、宇宙空間に広がっていて、よく見るとその一粒一粒が、わたしのまわりにいる一人一人だったのでした。そして、一人一人がみんな光だったんだ、と思った瞬間、その光の粒粒であるみんなが、マンダラに出てくるような神々に変化したのです。とても壮大で、透明で、微細な、無数の神々のいる宇宙空間を、突き抜けて行きました。
まわりの人も、見えてくる山の中の葉っぱも、すべてが神々なんですね。
とても感銘を受けました。

古代の人は、もしかしたら、日常的にそのような意識の拡大を経験していて、
だからこそ、一厘の花の中に、すべての中に、神を見出していたのかもしれないですね。


 
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# by ami-cosmo | 2004-09-16 04:55 | 意識の拡大

テロの夢と踊りとお菓子作りと。


おはようございます。今朝はテロの夢を見ていたようでした。
自分の出入りしている建物みたいなものがあって、出入り口が正面と裏と二つあるのですが、正面の方には銃を持った人がたくさん立っていて、とっても危険だからということで、裏から出入りしていました。
そんな中でわたしはお友達がたくさんいて、みんなで森の中などをお出かけしていました。

ここのところテロが相次いでいますね。ロシアでは子供たちが犠牲になったと聞いて心が痛いです。

一昨日は、名古屋からのお手伝いの女の子が来たのですが、その時もテロの話になりました。誰が悪い、ということでもないのかもしれないね、という話に。結局、社会の歪み=個々の心の歪みが生じさせている問題なのかもしれません。


一昨日はアーモンドタルトを作りました。が、正確にはアーモンドタルトではありませんでした。なぜなら、タルト型がなかったのです。工場を探しても、器具置き場を探しても。。
仕方なく手で作ったのですが、焼いたら中のクリームが外に飛び出していてすごい姿になっていました。周りを切って、何とか、タルトのようなもの、になりました。

昨日はライオンの顔を持つ女神と、もものケーキを作りました。以前は黄桃を使ったのですが、今回は黄桃と白桃を半分ずつ入れました。
その後、ココナッツミルクのケーキを作りました。
実際、消火器の粉がかかったわけではないようなのだけれど、消火器を誤って押してしまった時に、近くにあった小麦粉、とのことで。
通常のお菓子の材料としては使えないので、普段の配送以外のものとして。
ココナッツミルクパウダーは、工場の隣の部屋のOさんからいただいたもの。
突然くれたのだった。早く使いきってほしいとのことで。
ということで、5kgいただいたのだけれど、さすがに10皿分の軽量に対して、
1.5kgは多かったのではないかな。
その後、会合のための琵琶の葉茶を煮出しました。

一昨日は、名古屋の女の子が踊りを教えてほしいとのことだったので、作業が終わった後、
急いでご飯を作って差し上げて、その後踊りをちょっとだけ踊りました。

少し前に、中国拳法関連のお友達から、「神楽舞とか踊らないの?」と聞かれたことがありました。
わたしは神楽舞を存じていなかったので、どういうものだろうと思って、天性の音楽家に伺ってみると、神道系の神への奉納のための踊りだとか。似合いそう、とのことで。
うーん、そうなのか。
以前、NGOのお友達の平和コンサートに行った時、月を愛する舞姫、ルナさんの舞を見ました。ネイティブアフリカンフルートの奏者、マークアキクサさんとの共演。
ルナさんはいろんな神社に奉納していて、ポタラ宮殿でも奉納したようです。
お二人でセドナツアーもされているとか。

踊りは好きで、良く踊るのですが、それなるが故に、周りには『踊りの人』というイメージが相当根付いているようで、よく、「森で踊っていそう」とか、「京都の舞妓さんのイメージがある」とか、古き中国的天人の世界のような夢を見る少女にも、「夢でamiちゃんが森の中で踊ってた。動物達が集まってそれを見ていたよ。」といわれてしまうように。
本当に森で踊っているので何も言えないですが。。。
踊る時、わたしは大体の場合、神々に捧げられるように、心を込めるように意識するよう心がけています。
太極拳を習いつつ、踊りを踊っていると、踊りは中国拳法にすごくよく似ているなって思いました。

そういえば、以前、ジブリに出てくる音楽のような、とっても素敵な曲を作るお友達に、
絶対感動するから読んでみて、と言われて、FFXのストーリーと絵が載っている本を貸していただいたことがありました。
その中に出てくる召喚士ユウナはとっても共感が持てる存在でした。
踊ることで、異界送りができる、というのはすごいと思います。
本当だったら、殺されたことでモンスターになってしまう魂を、異界へと誘えるのです。
わたしはまだこの物語を知らない頃、ポスターを見かけてすごく気になっていたのですが、
ストーリーを読んでみて、気になった理由がわかりました。
とっても深い物語りだったんだなって。

主人公の少年は、自分の町から突然別の世界に行ってしまうのですが、その帰ろうとしている自分の世界、そして、自分自身も、祈り子の夢、幻だと最後に気づくのです。

とても哀しいですが、この世界における本質でもあるかもしれないな、とも思うのです。

この世界は現実だともいえるけれど、ある意味現実だと思い込んでいるだけに過ぎない幻影のようなものとも言えると思うんですね。

そういう仮想現実とか、意識からなる世界について、考えさせられる内容でした。

召喚士ユウナも、例えつらいことがあったとしても、人々のために、命をかけて、そして人生を捧げて、召喚士としても使命をまっとうするところが素晴らしいと思いました。

ティーダに自分の街においでと言われた時も、「行けないよ。」と泣きながら答えるユウナの気持ちが手にとるように伝わってきて、泣いてしまいました。

ストーリーは、その本に目を通しただけで、ゲーム自体したことがないので全容はわからないですが、すごく深い世界観があるな、と思いました。

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# by ami-cosmo | 2004-09-13 09:11 | 踊りについて。

月見草の咲く草の道を駆けぬけて。

昨日は秘密の女神が川に連れて行ってくれました。
わたしの背よりも大きく伸びた草の道を駆け抜けていく女神。

見失わないように急いで追いかけました。
足もとには薄紫の小さな花、
この場所を知っている人だけを向かい入れているかのような植物たち。

草のトンネルを抜けると、大きな山に挟まれた流れの速い川の岩場に着きました。
所々薄いエメラルドグリーンの岩、あまりにも大き過ぎるくらいの威厳が、
威光放つ存在を感じさせる山。
力強く流れる川。神々の顕現を想わせる白く柔らかい光と霧。

何て素晴らしい場所なのだろう。ここはどこなのだろう。

わたしは、わたしを包み込むその大きな自然を、暫く呆然と、
少し不思議な気持ちで、でも、何かを思い出しそうな懐かしい記憶と共に
眺めていました。

強くて大きくてあたたかいその山は、おかえり、と言っているようで
愛おしさが込み上げてくるのでした。

何て、強くて優しい波動なのだろう。安堵感と畏敬の念を持ちながら、
右をしたにして横たわりました。頬から伝わってくる岩のあたたかさ。
川がおいで、って言っているみたい。

目を閉じて、その安心できる場所で夢を見ました。
わたしたちの、魂の、本来の場所。そこに近い気がする。

気がつくと、秘密の女神がニッコリ微笑んでわたしを覗き込んでいました。

「ほんとに寝てるーー。。まるで人魚姫みたいに。」 と。

人魚姫か、そういえば小さい頃好きだったな。

「今度、尾鰭を作ってあげようか。」

楽しそうに笑う植物を愛でる女神。

ここでの夢は安らかだけれど、起きた時、尾鰭があったら、
ちょっとびっくりするかもしれない。。

「そろそろ帰ろうか。」

また駆け足で草のトンネルを駈け抜けていく。
わたしも急ぎ足で追いかける。

途中、蔓が足に絡みついて転びそうになると、

「確かに、魔女に狙われそうだね。」とクスクス笑うのでした。

魔女って蔓を使うのかな。。。そんなことを不思議な気持ちで考えながら
薄紫の小さな花と、フワフワの草の道を走って。

「ほら、月見草だよ。」

小さな黄色い花。ジャスミンのような、良い香りがするからといわれて
香ってみる。ほのかな香り。

秘密の女神が選ぶ、秘密会議の場所は、
そんな場所だったりするのだそう。

川に行く途中、ひまわりのことを質問してみました。
ひまわりと同じ形をしている小さな花も、ひまわりなのかな、と。

すると、「ひまわりだよ。」と。

ひまわりはいろんな種類があるのだそうです。

小さいのから、大きいものから、紫色だったり、チョコレート色のひまわりだったり。でも、似た花もたくさんあって、基本的にひまわりのように前を向いて咲いているものがひまわりの系統で、上を向いて咲いているのは違うと考えたら良いそうです。

河原には彼岸花と月見草が咲いていました。


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# by ami-cosmo | 2004-09-10 02:56 | 自然派。